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国家遺産の紹介

昌徳宮

  • 昌徳宫 地图
1. 敦化門一帯
敦化门一帯

規模と品位を同時に備えた昌徳宮の正門
昌徳宮の正門である敦化門は、1412年(太宗12)に建立された。創建当時、昌徳宮の前には宗廟があり、宮の進入路を宗廟西側に作るしかなかったため、敦化門も宮廷の西側に造った。2階建て楼閣型木造建築で、宮廷正門のうち最大の規模であり、前に広い月台を造って宮廷正門の威厳を表した。敦化門は王の行列等の儀礼がある時に出入口として使用し、臣下たちは西側の金虎門から出入りした。当時、敦化門の2階には鐘と太鼓をぶら下げて通行止めの時間には鐘を鳴らし、解除時間には太鼓を打ったという。敦化門は、文禄 · 慶長の役の時に全焼したため1609年に再建され、宝物に指定されている。

錦川橋
昔から、宮廷の中に入る前に明堂水(吉とする場所を流れる水)を渡るように造った。この水は、宮廷の内と外を分ける役割をすることから禁川といい、北から南に流れ、敦化門の東側の外へ流れていく。1411年(太宗11)、禁川に橋をかけたが、錦のようにきれいな水が流れる小川にかけた橋ということで「錦川橋」と呼ばれた。現在宮廷に残っている最も古い石橋で、2012年宝物に指定された。

2. 仁政殿一帯
仁政殿一帯

国家の重要な儀式を行った場所
仁政殿は、昌徳宮の正殿として王の即位式、臣下たちのあいさつ、外国使臣の接見など重要な国家の儀式を行っていた場所だ。前方に儀式を行う庭である朝廷があり、後方には階段式庭園がある。2段の月台の上にたおやかな2階建ての建物を建てて堂々として見えるが、月台が低く欄干もないため、景福宮の勤政殿に比べれば素朴な姿だ。仁政殿は見掛けは2階建てだが、内部は華麗で吹き抜けになっている。床には、元々土を焼いて作った伝統磚(石床)が敷かれていたが、今はただの床となっている。電灯、カーテン、硝子窓などとともに1908年に西洋式に改造したものだ。朝廷を取り囲んだ外行閣には、護衛隊の駐屯所と倉庫などを置いた。1405年(太宗 5)に昌徳宮創建とともに建立されたが、1418年(太宗 18)、パク・ジャチョンによって再び建てられ、文禄 ·慶長の役の時に焼失したものを1610年(光海 2)に再建、1803年(純祖 3)に焼失したものを翌年に修復して現在に至る。外行閣一帯は、1991年以後に修復した。仁政殿は国宝に指定されている。

3. 宣政殿一帯
宣政殿一帯
宣政殿一帯

王の執務室として使われた場所
宣政殿は王が高位職の臣下たちとともに日常業務を執った公式執務室で、地形に合わせて正殿である仁政殿東側に建てられた。朝の朝廷会議、業務報告、国政セミナ―など、各種会議がここで毎日開かれた。創建当時は朝啓庁と呼ばれたが、1461 年(世祖 7)に「民に施す政治をしなければならない」と言う意味の宣政殿と名称を変えた。文禄 · 慶長の役と仁祖反正(15代の王である光海君を追い出し、仁祖が16代の王に即位したこと)などの火災で焼失し、1647年(仁祖 25)に仁王山の麓にあった仁慶宮を壊して、その材木で再建した。周りを取り囲んだ行閣は秘書室、付属室と して使用した。現在、宮廷に残っている唯一の青い瓦の建物だ。後ろ側の煕政堂に執務室の機能が移り、純祖(23代王、1800~1834年)以後、ここを魂殿(死んだ王と王妃の位牌を宗廟に祭る前に約3年間祭った所)に使用した。宣政殿と宣政門の間に壁のない複道閣(渡り廊下)の建物があるが、この複道閣は魂殿のために備えられた施設だ。現在宝物に指定されている。

4. 熙政堂
熙政堂

寝殿でありながら執務室であった場所
仁政殿が昌徳宮の象徴的な建物なら、煕政堂は王が最も多くの時間をすごした実質的な中心建物だと言える。元々の名称は崇文堂だったが、1496年(燕山 2)に煕政堂と名称を変えた。元々の執務室である宣政殿がたびたび国葬のための魂殿として使われたため、寝殿であった煕政堂が執務室の機能をするようになった。現在の煕政堂は、1917年に火災で焼失したものを1920年に復旧しながら景福宮にあった康寧殿を移して造ったものだ。『東闕図』に描かれた元々の煕政堂は、いくつかの石柱の上に建てた優雅で淡白な高床式建物で、庭に池もあった。現在の煕政堂はその姿とは完全に異なり、元々の康寧殿とも違う。再建された煕政堂内部はカーペットが敷かれ、硝子窓、シャンデリアなどを設置して西洋式になり、宝物に指定されている。

5. 大造殿一帯
大造殿一帯

歴史的悲劇の舞台である寝殿
大造殿は、王妃の生活空間だ。元々は大造殿周辺を多くの付属建物が囲んでいたが、その中の興福軒は、1910年、最後の御前会議を開いて庚戌国恥(朝鮮が日本の植民地支配下に置かれたこと)が決まった悲劇の現場である。1917年に火災によって焼失したが、1920年に景福宮の寝殿である交泰殿を移して現在の大造殿となった。移建しながら昌徳宮の状況に合わせて再構成したが、大造殿を中心に両側の翼棟と後方の景薫閣等が内部で互いに通じるように廊下と行閣で連結させた。元々の宮廷建築の様式を再現している唯一の場所である。煕政堂と同じく内部は西洋式に改造し、 王室生活の最後の様子が比較的よく残り、宝物に指定されている。

6. 誠正閣一帯
誠正閣一帯

皇太子が日常をすごした東宮
現在、誠正閣と楽善齋の間、後苑に続く広い道には元々、皇太子の居所である重煕堂があり、この一帯は東宮とも呼ばれた。東宮一帯には多くの建物があったが、重煕堂は1891年(高宗 28)になくなり、重煕堂と繋がった六角形の建物である三三窩、その横の七分序と承華楼などが残っている。これらは互いに廊下で繋がっており、書庫と図書室として使用した。誠正閣は皇太子の教育場であったが、日帝強占期には内医院(王室の病院)として使用されたりした。誠正閣は平屋だが、東側に高床式建物が付いた独特な姿だ。2階には喜雨楼、報春亭という扁額がかかっている。誠正閣裏手にある観物軒は、王がしばしば立ち寄って読書と接見をした所で、現在は「緝煕」という扁額がかかっている。

7. 闕内各司
闕内各司

王と王室を補佐する闕内各司
官庁は大部分宮廷の外にあったが、王を近くで補佐するため、特別に宮廷の中に建てた官庁を闕内各司と呼んだ。仁政殿の西側の地域には、中に流れる錦川を境界に、東側に薬房、玉堂(弘文館)、芸文館が、西側に内閣(奎章閣)、奉謨堂、大酉齋などが位置していた。これらはみな王を近くで補佐する官庁であり、多くの部署が密集していた。日帝強占期に奎章閣、大酉齋、小酉齋は単純な図書館として機能が変わり、所蔵図書を京城帝国大学図書館に移した後、奎章閣と奉謨堂等、すべての建物が取り払われて道路と芝生に変わってしまった。他の官庁もこの時一緒に取り払われ、その跡地に倉庫兼剣道場などが立てられたりした。現在の建物は、2000~2004年に修復したものだ。

8. 旧璿源殿一帯
旧璿源殿一帯

王室の祭礼を行った場所
璿源殿は、歴代の王の肖像画である御真影を奉って祭祀を執り行なう神聖な所だ。1656年(孝宗7)に慶徳宮の景華党を移建して昌徳宮の璿源殿としたが、1921年に新璿源殿を後苑の奥深い所に建立し、御真影を移したので、この一帯は廃墟となった。璿源殿は今も残っているが、付属建物はこの時になくなり、2005年に復元された。璿源殿は36間規模であり、前面の左右に陳設庁を新たに建て、祭祀儀礼に使用した。東側にある養志堂は、王が祭祀の前日にとまった御齋室だ。璿源殿の裏手にある儀豊閣は、祭祀容器と道具などを保管する倉庫で、日帝強占期に新築したと伝えられている。璿源殿は宝物に指定されている。

9. 樂善齋一帯
樂善齋一帯

憲宗のつましい一面が感じられる場所
朝鮮24代の王である憲宗は、キム・ジェチョンの娘を慶嬪(側室)として迎え、1847年(憲宗13)に楽善齋を、翌年に錫福軒を、寿康齋と並べて建てた。楽善齋は憲宗の、錫福軒は慶嬪の住まいで、寿康齋は当時の大王大妃である純元王后(23代純祖の王妃)のための建物だった。側室のために宮廷内に建物を新たに建てたのは、非常に異例なことだ。憲宗は普段つましいながらも先進文化に多大な関心をよせた。その一面が感じられる楽善齋は、丹青(彩色)を施さない質素な建物、壁、障子等の模様、平遠楼の建築様式等から清の影響をうかがうことができる。楽善齋は、建物と庭で幾重にも囲まれていたが、日帝強占期に撤去されて花壇として残っていたものを、1996年に昔の姿に復元したものだ。錫福軒では、純宗の妃である純貞孝皇后が1966年まで暮らし、楽善齋では英王の妃である李方子女史が1989年まで生活した。この楽善齋は、2012年宝物に指定された。

10. 芙蓉池と宙合楼
芙蓉池和宙合楼
芙蓉池和宙合楼

休息と学問研究のために使用された美しい建物
ここは後苑の中で最も中心的な場所で、休息だけではなく学問と教育をしていた比較的公開された場所だった。300坪(約1,000㎡)の広さの四角形の池である芙蓉池を中心に多くの建物を建てた。宙合楼一帯の奎章閣と書香閣などは王室図書館として使用され、暎花堂では王が立ち会う特別な科挙試験も行われた。暎花堂は東に春塘台の庭と、西側に芙蓉池と向かい合っており、前後に縁側がある珍しい建物だ。芙蓉亭は、池に咲く蓮の花のような形で、2012年宝物に指定された。行事が行われていた暎花堂は池に面しており、学問を研磨した宙合楼は高い所から池を見下ろしている。宙合楼も2012年宝物に指定された。一つ一つの建物もそれぞれ特色があって美しいが、自然の中にそれぞれの建物が溶け込み、調和をなしながら絶妙な景観を作り出している。現在は魚水門を中心に、生け垣である翠屏で芙蓉池と宙合楼一帯を区分している。

11. 愛蓮池と倚斗閤
愛蓮池と倚斗閤

君子の人柄をあらわす景色
1692年(肅宗18)に池の中に島を作って東屋を建てたというが、現在その島はなく、東屋は池の北側にある。蓮の花が特に好きだった肅宗は、この東屋に「愛蓮」という名を付け、池も愛蓮池となった。肅宗は、「私が蓮の花を愛するのは、汚い所にあっても清くて美しい強さを秘めながら、世俗に染まらない君子の姿と似ているからだ」と新しい東屋の名前をつけた理由を明らかにした。愛蓮池の西側の演慶堂との間にもう一つの池があるが、元々ここに魚水堂という建物があったという。1827年(純祖27)、孝明世子(孝明皇太子)は愛蓮池の南側に倚斗閤をはじめ、いくつかの建物を建て、塀を作った。現在「奇傲軒」という扁額の付いた倚斗閤は8間の小さな書斎で、丹青(彩色)も施されていない非常に質素な建物だ。すぐとなりの韻磬居は、宮内で最も小さい一間半の建物だ。

12. 演慶堂
演慶堂

士大夫(貴族)の屋敷に倣って造った朝鮮後期の接見室
演慶堂は、孝明世子が父である純祖の尊号を捧げる儀礼を行うために、1828年(純祖28)頃に創建した。現在の演慶堂は、1865年頃に新たに建てたものと推定される。士大夫の屋敷に倣ってサランチェ(男性の居所)とアンチェ(女性の居所)になっており、丹青(彩色)も施さなかった。そして、サランチェとアンチェは別のスペースになっているが、内部は繋がっているという点も似ている。しかし、士大夫の屋敷が99間で規模が制限されていたのに比べ、演慶堂は約120間もあった。書斎である善香齋は清風の煉瓦を使い、銅版を使った屋根に西日を遮る目的で、滑車式のひさしがついていて、異国的な感じがする。演慶堂エリアの高台にある濃繍亭は、まるで鷹が羽を伸ばしているようなすらっとした姿だ。アンチェの裏手には台所がある。高宗(26代王、1863~1907)以後、演慶堂は外国の公使たちを接見して宴会を催すなど、政治的な目的で利用された。現在宝物に指定されている。

13. 尊徳亭一帯
尊徳亭一帯

様々な形の東屋
この一帯は、後苑の中で最も遅く完成したところだと思われる。元々の姿は、四角や丸い3つの小さな池が並んでいたが、日帝強占期に一つの曲線形の池に変わり、現在は「観纜池」と呼ばれている。池を中心に、二重屋根で六角形の尊徳亭、扇の形をした観纜亭、西側の丘の上に位置した切り妻屋根の砭愚榭、観纜亭の向かい側の勝在亭など、様々な形の東屋を建てた。砭愚榭は元々逆L字型をしていたが、現在は一文字型の簡素な姿だ。そして森の中にある勝在亭は、方形の屋根のすっきりとした姿だ。1644年(仁祖 22)に建てられた尊徳亭が最も古い建物で、観纜亭と勝在亭は19世紀後半から20世紀初期に建てられたものと推定される。

14. 玉流川一帯
玉流川一帯
玉流川一帯

多様な角度から景色が鑑賞できる所
玉流川は、後苑の北側の最も深い谷間に流れる。1636年(仁祖14)に巨大な岩である逍遙岩を削って、その上にU字形の溝を掘り、水が流れ落ちるように小さな滝を作った。そして、流れる水の上に杯を浮かべて詩を作る流觴曲水宴を開いた。岩に刻まれた「玉流川」の三文字は仁祖の親筆で、五言絶句の詩はこの一帯の景色を詠んだ肅宗の作品だ。逍遙亭、太極亭、籠山亭、翠寒亭などの小さな規模の東屋をあちこちに建てた。小さな田がある清漪亭は、わらで屋根をふいた東屋だ。『東闕図』には16軒のわらぶきの建物が見えるが、今は清漪亭だけが残っている。

15. 新璿源殿一帯
新璿源殿一帯

歴代の王の肖像画である御真影を奉って祭祀を執り行った所
ここには、元々文禄・慶長の役の時に軍隊を送ってくれた明の神宗を祭るために設置した大報壇があった。日帝強占期である1921年に大報壇を撤去して新しい璿源殿を造り、旧璿源殿に祭っていた御真を移した。このように、後苑の奥深い所に璿源殿を移転させた理由は、朝鮮王室の象徴性を弱化させようとする意図とうかがえる。付属建物である懿孝殿は、元々景福宮の文慶殿を慶運宮(現在の徳寿宮)に移してから再びここに移して来たものだ。ここにあった12の御真影は、韓国戦争(朝鮮戦争)の時釜山に移したが、焼失した。